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2014年6月

ハーネスと魔女の宅急便と「養育責任の社会化」(その3)

こんな暢気なブログをゆっくりぽちぽち書いている間にも、神奈川県厚木市で7歳の男の子の白骨化した遺体が発見されるという、とてもかなしい事件が発覚しています。子供を一人自宅に閉じ込めていた父親が、ある日戻ったら子供が死んでいたので怖くなってそのまま逃げたと供述しているらしいのですが、詳しいことはまだまだよくわかりません。児童相談所も小学校に入学しているはずの子供の所在を最後まで確認せずに、除籍していたなど、ずさんな対応が問題になっています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140531/k10014880641000.html

この件については、まだ何もわかりませんが、親子が孤立状態であったことは間違いなさそうです。他のネグレクトや虐待事件でもそうなのですが、「孤立」といっても、物理的に誰も周囲に人がいなかったわけではなく、実際には、家族や親族、近所の住民や福祉関係者や医療者など接触のある人間は存在していて、それでも困窮していること、そこまで深刻な状況にあることが認識されていなかったということが、最悪の事態に至らしめるというのが実態のようです。
「もっと早く対応していれば、救えたかもしれない」そんなセリフさえ聞き飽きたと思わされます。

こんな事件に対してさえも、「親は、本当に困っているなら、自分から助けを求めるべきだ」「色々な制度があるのに、それを調べようともしないのは親の努力不足」という批判が必ずありますが、本当に困っている人というのは、そういう制度について調べたりすることがそもそも出来なかったり、「他人に迷惑をかけたくない」と、自ら社会や周囲とのつながりを断ってしまう人も多いのです。
自分も行政に助けを求めて冷たい対応された経験があったり、そういう話を聞いたりして、他者や社会を信頼することが出来ない場合もあります。親がそうして孤立していると、子供も他者や社会を信頼できる存在と思うことも出来ないでしょう。

悲惨な虐待報道にふれ、なんとか助けられなかったのかという後悔から、養育能力のない親、自覚のない親を「失格親」として子供を強制的にひきはなし、親権をうばうべきだという話にもなりがちです。
養育能力のない親、資格がない親というレッテルを貼られることを恐れて、望ましい支援を受けることを拒絶する親も多く、その結果、取り返しがつかない結果を招く場合もあります。
児童相談所や児童養護施設などは、子供を親から取り上げるところではなく、一時的に預かって、生活を立て直すために必要な手助けをしてくれるところです。間違ったイメージや認識が広がることで、助けを必要としている親子が、さらに孤立を深めてしまう恐れがあります。
すべての子供が必ず実の親に育てられるべきとは言い切れませんが、原則として、子供を社会で育てるということは、「親子ごと家族ごと社会が支える」ことであるべきです。
なぜ周囲に助けを求めなかったのかを非難するより前に、私たちは、信頼されるに足る存在だったのか、本当にSOSは出されていなかったのか、気づいていなかっただけではないのかを反省するべきだと思います。しかし、では具体的にどうしたらいいのか、いったいなにをどうしたら救えるのかは、まだわかりません。

ただ少なくとも言えるのは、ハーネスだの、ベビーカーだの、スマホのアプリだの、そんなことをあげつらって「虐待じゃないか」とか「近頃の若い親は・・・」と嘆いたり、実際に子育てしている人たちに説教したりするより、色々なやり方があって試行錯誤しながらがんばっている人を静かに見守ることのほうが有効であろうということでしょう。
もし電車の中などで泣いている子供を抱えて困っている人がいたら、なにか手伝えることがあるかと直接きくか、なにもしなくても、子供に微笑みかけるだけでも疲れている親は救われるかもしれません。
ちっちゃな魔女見習いのキキを育てた町の人々ならば、きっとそうします。
町の人々は「キキの鈴」の音に耳を傾け、ちっちゃなキキは今日も元気だね、どっかで落ちてないかね、最近音がなることがすくなくなったねと、いつも気にかけ注意をはらっていたのでしょう。
私も、なにかが出来るわけでなくても、小さな変化や喧騒にまぎれてしまいそうなSOSを見落とさないようにしていたいとおもいます。
そして、いつか親子が本当の自立…便利なグッズや支援制度や人の助けを上手に利用して自信を持って生活できるようになること…出来た時、しみじみと「あの鈴の音」を懐かしくさみしく思い出すでしょう。


「養育責任の社会化」という途方もなく大きな課題を考えた時、ど素人のいち主婦でただのアニメ好きな私が最初に持ったイメージが、「あの鈴の音」だったのは、おそらくこんな理由ではないかと思います。
「あの鈴の音」は、町全体で、未来の担い手である子供を見守り育てるために、共有できる情報であり、手段のイメージです。具体的に自分の町ならば何に置き換えられるかを考えてみるのも、考える手がかりになるかもしれません。

以上ながながながながと駄文失礼しました。ここまで付き合って「おいおい、こいつなんもわかってないやん!」というご意見大歓迎です。全く手探りの状態なので、どんなつっこみでもありがたいです。


さて以下は余談ですが、キキを見守ってきた鈴は、その後どうなったのか。原作によると、一年間の修業を終えて、一旦町に帰ってきたキキは、一人暮らしを始めたコリコの町で改めて暮らすことを決意し、両親に告げます。そのあと、コキリさんと一緒に鈴を取り外し、大きな鈴のひとつをきれいに包んで持たせてくれたのでした。
「もう使うことないのに」というキキに意味深な微笑みを返す母。

で、さらに余談というかネタばれ注意ですが

大人になって、飛行クラブのトンボと結婚し、双子のちっちゃな魔女に恵まれるのだそうです。
今度は、キキが高い木のてっぺんに、鈴をつけてあげたのでしょうか。
こんな「連鎖」なら、大歓迎ですよね。


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ハーネスと魔女の宅急便と「養育責任の社会化」(その2)

 
ジブリアニメの「魔女の宅急便」は、「女性の自立」をテーマに作られました。
主人公のキキは13歳の魔女ですが、魔法は「空を飛ぶこと」それだけしか使えません。そして、それさえ、満足ではありません。魔法の箒はすぐにバランスを崩して制御不能で暴走したり、数十メートル上空から落下したり、とても危なっかしいのですが、そのたったひとつの才能を武器に仕事をはじめて、親元を離れ誰も知る人のいない町で暮らさなければなりません。それは、「絵を描く」こと以外に何もない自分そのものでした。
この「」の中身が人それぞれ違うだけで、自分の強みを活かして仕事をしても、うまくいくことの方が少なくて、失敗ばっかりで自信を失ったり、生きていくことの難しさや社会の厳しさや、でもうまくいった時の喜びや新しい友人を得る幸せを多くの人が経験して知っているから、多くファンの共感を得たのだろうと思います。

13歳のキキは、全くつてのない大きな町で一人暮らしを始めるのですが、実は「空を飛ぶ」以外のおそるべき才能を持っていて驚かされます。それは「自分と他人を信じる」ということです。
ともかく、傍から見て非常に危険がいっぱいの飛行能力で空を飛ぶのですから、その「自分を信じる力」は半端なものではありません。突然力を失ったら、完全にコントロールを失ったら、それは本当なら「死」を避けられないでしょう。死をも恐れない超絶ポジティブさです。
そのうえで、「お届けものやさん」を始めます。お客さんから大事な「届け物」を預かって届ける…落としたりぶつけたりしたら弁償しなくてはいけませんし、十分にコントロールできないのに、決められた宛先に決められた時間に届けることができると言う根拠のない自信だけが頼りです。訴訟の多い私たちの社会なら、まず周囲が全力で止めたことでしょう。

もうひとつは「他人を信じる」力です。
初対面でいきなり、その日の宿にも困っていた自称「魔女」に「気に入ったから」という理由で住まいを提供するおソノさんもオソノさんですが、そのおソノさんや無口でがたいの良いご主人も、非常にあやしく、とても信用できないのが普通ではないでしょうか。
非常に疲れ果てていて、正常な思考力がなかっただけなのかもしれませんが、キキは素直に喜んで住みはじめ、その場で商売も始めます。その他にも、キキは「一般的信頼」がとても高いといえる場面がいくつもあります。

一般的信頼というのは、「たいていの人は信頼できるので特に用心する必要はない」と考えることです。
一見、ただの世間知らずのお人好しで、すぐに犯罪に巻き込まれたりしそうにおもいますが、実際には、信頼できる人かどうかを瞬間的に見極める能力に長けているという話もあるそうです。キキもそうなのかもしれません。実際、キキが出会った人たちは皆良い人ばかりで、キキに協力的ですし、キキも周囲に助けを求めるのがとても上手です。
「自立」とは、自分以外の誰も何も頼らずにひとりでがんばることじゃなく、自分の強みを活かしながらも、周囲を信頼し、上手に頼ったり頼られたりすることができることなんですが、13歳のキキは、旅立ったその日から『自立』していたんですね。
なぜなんでしょうか。
アニメの中ではあまり描かれていない、キキの成育環境に関係ありそうです。


ところで、ジブリアニメ「魔女の宅急便」は、角野栄子作の同名小説が原作であることは言うまでもないことですが、原作とアニメはずいぶん違う内容のようです。アニメ化に際し原作者が宮崎駿氏に唯一お願いしたことは、「キキの旅立ちの日、鈴を鳴らせてほしい」ということだったそうです。
アニメの中では、あの冒頭のシーンだけに登場する鈴ですが、作者にとっても重要なものだったことがわかります。
アニメの中では説明がありませんが、あの鈴をつけたのは、キキの母親であるコキリさんです。10歳から魔女見習いとして箒で空を飛び始めたキキですが、その力はおぼつかないのに注意力散漫で、他のことに気をとられると箒が下がってきていても気づかず、電柱にひっかっかってしまいそうになるからで、町じゅうの高い木々に大きな鈴をつけておけば、箒の高度が下がって木に足をひっかけても、鈴が鳴るので気がついて、電柱や他の建物にぶつかることを防げるからです。幼いキキを守ることだけじゃなく、おそらく、キキの墜落や暴走で村人に危機が及んだり、村人の財産を守る意味もあったのでしょう。

アニメの中でも、町の中で暴走して渋滞や事故を誘発したり、騒ぎをおこしているし、それは村でも同じだったに違いありません。建物や作物を傷つけたり、家畜を驚かせたりしたことでしょう。鶏は玉子をうまなくなったり、牛は乳がでなくなったり、そんなこともあったかもしれません。
そもそも、魔女の子とはいえ、そんな危険なことをさせていること自体、どうかしていると思います。木々に幼い女の子が激突したり足をひっかけてきりきり舞いしたりしていることを知らせる鈴の音を、村の人は、「キキの鈴」を名付けて愛していたのだと思います。そうでなければ、「あの鈴の音もとうぶん聞けないなあ・・・」というセリフができくるはずがないからです。
そう、あの「あの鈴の音も・・・」は、アニメ「魔女の宅急便」のなかで、村人たちがキキの育ちを家族と一緒にいかに静かに見守りってきたかを、たった一言で表現しつくしている。だから、「来る」んですねえ・・・(もうなんか涙がが・・・)

キキが生まれ育った町は、コキリさんとキキ以外は普通の人間ばかりです。
魔女と言えば「悪いたくらみをする」として嫌われることも多かったのに、この村の人たちはコキリさんを
「魔女って時計にさす油みたいな存在よ、いてくれると町がいきいきするわ」といって歓迎し、魔女の子育てを見守ってきました。高い木と言う木のてっぺんにつけられた大きな鈴がなるたびに
「また、ちっちゃなキキちゃんが足を引っ掛けたのね」と目を細めて。
おそらく、それはキキが魔女の子だから特別だったのではなく、他の子供たちも同じように育てられてきたのだと想像できます。
キキは小さな時から、町の人が助け合い、美味しいものなんかを「おすそわけ」をしあって暮らす様子を見て育ち、自分もお手伝いをしたり感謝されたりしてきました。キキにとって、大人や社会は、心から信頼できる、安心できる存在であり自分が肯定される場所だったのです。

もし、町の人が魔女に心を開かず、悪しき存在として阻害していたらどうだったでしょうか。
そんな小さな子を箒なんかに乗せて飛ばせるなんて危険すぎる!町じゅうのの木に勝手に鈴をつけるなんて非常識!電柱や家や畑や家畜の被害をどうしてくれる!!そんな風にバッシングされていたら・・・
コキリさんは、キキに飛行魔法を禁じていたかもしれません。キキは、魔女と言う異端の存在である上に魔法も満足に使えない自分なんか…と自信も持てなかったでしょう。また、親に冷たく当たり阻害する町の人や社会を恐れ、「人に迷惑をかけてはいけない」と、自ら社会や他者とのつながりを断ってしまったかもしれません。
キキがひとりで町を出た時
「あのうるさい鈴の音が聞こえなくなると思うと、せいせいする。やっと平和が戻ってきた!やれやれ」と言われたら、「魔女の宅急便」は一体どんなお話になっていたでしょう。
オソノさんの申し出をうけず、絵描きさんとの交渉もならず、パイのおばあさんとの出会いもなく、トンボのピンチに、デッキブラシを調達することも出来ず、トンボを失い、社会と人間を呪い、ソウルジェムも真っ黒になって本物の人に仇なす「魔女」になっていたかもしれません(違)

「多様性を尊び、お互いさまで助け合い、余計な干渉はしないで黙って見守る」
当たり前のことばかりだけど、なかなか出来ることではなさそうです。私たちは、ついつい逆のことばかりしてしまう。他の人と違うと言われることを恐れ、自己責任を求められ、なにかにつけて駄目だしされる。
なにか強みがあったとしても、失敗を許されなければ試してみることすら出来そうにありません。


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ハーネスと魔女の宅急便と「養育責任の社会化」(その1)

ツイッターのタイムラインに、友人夫婦の一歳になったばかりの男の子が、ハーネスつけてお散歩にいったよというつぶやきが流れてきました。お外にでたい盛りの男の子とかわいいリュックについたハーネス。とても微笑ましい姿です。

ハーネスといえば、1~3歳くらいの子供の背中に迷子や飛び出し予防のためにつける紐です。アイテム自体は、もうずいぶん昔からあるけれど、子供をペット扱いしているようだという批判が多く、日本ではいまいち普及していません。ハーネスもハーネス批判も、昔からあって珍しくないのだけど、今週はテレビで取り上げられ、批判的なコメンテーターのツイートが注目されるなどで、にわか話題になりました。


今回は、ハーネスだけど、今までも、電車の中でのベビーカー利用や、子連れの新幹線や飛行機の移動、事件にもなったベビーシッターのマッチングサイトなどに対して、「親の手抜き、愛情不足」「親の都合や楽しみのために子供をふりまわしているだけ、子育て中は我慢するのが当たり前、わがまま」「虐待じゃないか」「社会への迷惑を考えろ」などなどと、子育て世代に対して厳しい意見が目につきます。
便利なグッズやサービスは、上手に使って、大変な子育てを少しでも余裕をもってやっていくことが、虐待予防にも一番大事なことだと思うのだけど、子育て世代に厳しい人たち自身も、それぞれ事情があったり、理由があるのだろうと思うと、社会全体が経済的にも精神的にも余裕をもてるようになっていかないと、同じような議論はターゲットが変わるだけで続いていくことだろうなと思われます。
しかし、そんな厳しい声の主たちも、若いパパママをいじめたいわけじゃなくて、小さな無力な子供を育て上げることへのプレッシャーに、日々のお世話の悩み…おっぱいを飲まない、食べない、寝ない、言葉が出ないなどの発達の悩み、孤立感、無力感、経済的不安や将来が見通せない閉そく感など、子育て世代のしんどさがわからないわけじゃなくて、むしろ、なにがしかの力になりたくて、自分の子育て経験からアドバイスしようとしていたり、養育能力のあやしい親から子供を守ってやりたいという思いからの遭えての苦言でもあるのではないかと思います。
子供は、親にとってだけじゃなく、社会全体にとっても将来を担う存在です。親任せにせず、社会で、育てていくべきだと考えが広がりつつあるのでしょう。
後を絶たない虐待や機能不全家族、近頃、注目を集めている「子供の貧困」も、親任せにして放置していては連鎖を断ち切ることはできません。しかし、そういう問題は、一言二言で説明がつかない理由や背景が複雑に絡んでいて、素人が、自分の経験だけでアドバイスしたり、批判して解決することはないでしょう。
私たち「外野」の人間が、子供たちに対して、子育て世代に対して、すぐに出来ることはなんなんだろう・・・
そんなことを考えるようになり、最近「大阪子どもの貧困アクショングループ」の勉強会に参加したり、関連の本などを読んだり、いろんな人の話をきいたりしています。
そして、メディ・カフェでも「養育責任の社会化」をテーマにしてワークショップをやりたい!と強く考えるようになりました。

さて、「強く考えるようになった」といっても、具体的にどうしたらいいのか・・・がまだ決まっていません。というか私自身が「養育責任の社会化」について、まだほんとに、うすぼんやりとしたイメージしかつかめていないのですから困ったものです。

そんな中、弱い頭を絞って、あれこれ考えている時に、ふいに浮かんできたのがスタジオジブリの「魔女の宅急便」でした。なぜ?魔女宅??自分でも不思議でした。
じつは、「魔女の宅急便」は、ジブリ作品の中でも、一番個人的に思い入れがあるアニメーションです。ちょうど美術系の短大を卒業し、陶器の絵付けをする仕事をするため、生まれてはじめて親元を離れて寮生活をしはじめたころに映画館で見て、非常に感動して、お金なかったけど何度も映画館で見て、当時は1万円以上したビデオも買って…。
この作品を好きっていう人は多いけど、私のように、「最初から最後まで何度でも泣ける」というのは少数派らしく、一緒に見に行った友人にも怪訝な顔をされたものです。
私が、この作品の中で一番好きなのは、冒頭の生まれた村を魔女見習いのキキが飛び立つところ。
古い箒に跨って、勢いよく飛び立ったはいいけど、バランスを崩して森の木に激突。あっちにぶつかり、こっちにぶつかりしながら、でもなんとか旅立っていきます。木々につけられて鈴が、チリーンチリーンと鳴って、その音がだんだん小さくなって、耳を澄ましていた町の人が
「あの鈴の音も、当分、きけなくなるなあ・・・」というところで、私はいつも涙があふれてしまうのです。
なぜだろう・・・自分でもなぜ泣けるのか、そしてなぜ「養育責任の社会化」を考えるときに連想したのだろうかを考えてみたいと思います。


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